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■ テーマ:「団地・マンションの将来」を考える〜多摩ニュータウンでの展開を念頭に〜 ■講 師: 戸辺文博(NPO多摩ニュータウン・まちづくり専門家会議 理事長)
以下のような構成でした。 1.多摩ニュータウンにおける建替え・再生の進捗状況 (1)諏訪2丁目の振返り (2)2件目の建替え事例:松が谷 (3)多摩ニュータウン再生の状況 2. 建替え事業環境の激変 3.多摩ニュータウンにおける建替え・再生の展望 〜法改正や今後の制度の弾力化を受けて〜 (1)建て替えか再生か! (2)建替えを選択する場合の留意点 (3)法改正を受け:一棟リノベーションは建替えに代わる有力な選択肢
● 多摩ニュータウンにおける建替え・再生の進捗状況 多摩ニュータウンの団地マンション建替え第一号となったブリリア多摩ニュータウンとなった諏訪二丁目について、中立的な立場のNPOとして事業者選定に係わった後、その後は地域への建替え事業の進捗状況を木曜サロンを通じ情報提供してきました。 その中で建替え事業に着手した時点で、NPOに対して事業関係者から建替え前後の権利者への3回のアンケートへの協力依頼があり、その後さらに新規住民にも対象を広げたアンケートを実施しました。特徴としては、建て替え後の住民の構成が子育て世帯が多く移り住んだことにより、バランスのとれたコミュニティへとシフトしたことがあげられます。 建て替え後も地域に開かれた空間や周辺の人も利用できる施設が確保され、斜面緑地も保存されるなど良好な環境が維持されていますが、これは事業者選定後に設けられた「まちづくりデザイン会議」(多摩市もオブザーバー参加)において地域貢献についても検討したことが、実際の事業にも反映されたものです。
多摩ニュータウン建替え事例としては、八王子市の松ヶ谷団地もあります。多摩市の諏訪2丁目団地が建替え後の環境を考慮し容積率を150%に抑えていることに対し、松ヶ谷団地は容積率200%を使いきっており、その結果一日中全く日の当たらない住棟があり、駐車場はパズル式で地上に鉄骨が剥き出し、マンションの玄関へは、左右に駐車場を見ながらのアクセスとなっています。残念ながら景観や住環境に配慮しているものとは言えません。建替え後のマンションは、今後長期間良好なストックとして次世代に継承すべきですが、その質を備えているのか疑問に感じています。
多摩市のニュータウン再生方針をみると、団地再生の考え方としては、ポンチ絵でイメージが示されているだけで、管理組合が取組む方向性まではわかりません。一方、諏訪・永山地区や貝取・豊ヶ丘地区では、合意形成段階で複数年にわたり「多摩市マンション再生合意形成支援事業補助金」が導入されており、画期的ではありますが、残根なことに活用実績が1地区だけという状況です。この間を埋めることが地域の専門家の役割と思っています。
●建替え事業環境の激変 近年のマンション市場の変化や工事費の上昇などの実態の紹介があり、その影響から、これまでは負担なしでも建替えが実現できたが、現状では一戸1〜2千万のオーダーの負担が避けられない状況です。この実態については、立地・建替え前後の容積別上昇率などの条件別試算結果を示した説明がありました。
●多摩ニュータウンにおける建替え・再生の展望 前述したように事業環境が厳しくなってきていることを受けて、団地・マンションの将来に向けた再生についてどのような展望が描けるでしょうか。 多摩ニュータウンの年度別の住宅供給平均規模のデータをみると、住戸規模が大きいファミリータイプが多くを占めるため、建替え対象はオイルショック前の団地に限られるのではないかと思われます。 これらの団地は ・1住戸当たりの専用面積が50u前後と狭い ・全て同じ間取りであり、階高(天井高)や階段室のサイズが時代に合わず陳腐化している ・設備配管等が長寿命化に対応できない水準になっている ・壁や床(スラブ)の厚みが経済設計(最低限)で、今の基準では耐震基準、防音性、温熱環境(断熱性)が安全快適な生活の基準を満足していない などの課題を抱えています。
建替えを選択する場合の留意点としては、郊外地区の現在の優れた住環境はできるだけ維持しつつ、建替え後は建物の寿命は100年以上持つことを念頭に、次世代に継承する価値を有するかどうか、費用負担も次世代に継承できるスキームを考えることなどが重要なポイントとなるのではないでしょうか。
「マンション管理・再生の円滑化のための法改正」が行われ、一棟リノベーションは建替えに代わる有力な選択肢となる可能性があるかもしれません。分譲住宅ストックの多くを占める階段室型の最大の課題と考えるエレベーターの設置や高齢者世帯が多くを占めていると思われるタウンハウスのグループホームへのリノベーションなどのアイデアもあります。
以上の話題・問題提起が、居住者の高齢化や事業環境の変化によりなかなか進んでいない団地・マンションの再生の隘路を打開するきっかけとなることを期待したいものです。
(2025.11.30[Sun]記載)
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■テーマ: 『日本の原風景99 』を歩く ■講 師: 近藤正文(こんどう まさふみ)さん ■講師略歴:1946年岡山県に生まれる。京都大学工学部卒・同大学院修了/環境計画や都市計画を学ぶ。日本住宅公団に入社/団地やニュータウンの計画に携わる。著書「日本の原風景99」(いりす・同時代社2025.1)。同書出版記念写真展(街々書林2025.4)。)
近藤さんは京都大学卒業後、日本住宅公団に入社され、団地計画やニュータウン開発に携わってこられました。街づくりの仕事に関わる中で、半世紀余りにわたって様々な地域の伝統的なむらやまちを歩いてこられました。
このたび、撮りためられた写真をまとめ、「日本の原風景99」(同時代社)という本を出版されました。今回は、そのご著書から、伝統的な風景をとどめるいくつかのむらやまちをとりあげ、その歴史的背景や魅力をご紹介いただきました。
●「たび(他火)の面白さ」と原風景について 日本の原風景99の“99”とは、たくさんある中で、皆さんがそれぞれにお持ちの原風景を加えてもらって、100にしていただければいいという意味も込めています。
旅の語源は「他火」にあるといわれます。自分の棲家を離れ、他所の土地に出かけると、何はさておき食することが不可欠です。「他人の火」にお世話になり、火を囲んで四方山話に花が咲くと、面々の顔が暗闇に白く浮かび上がります。この興に乗った情景を「面白い」と表しました。他火(旅)は面白さに溢れています。
原風景とは非常に難しいんですが、自分が生まれ育ったところが原点にあり、、そこから広がっていくというような感じかと思います。皆さんそれぞれにその原風景の物差しはかなり違うんじゃないかなと思います。例えば北海道の小樽の風景と沖縄竹富島の風景では、それぞれ感じ方も違うし、自分の原風景ということにはならないと思います。
日本人のふるさとともいえるヤマト。奈良県の明日香村の飛鳥集落はなだらかな丘陵地に水田や民家が溶け込んでいて、茅葺に高塀の大和棟という建物が立ち並んでいます。一方、滋賀県の五箇荘金堂町は近江商人のゆかりのまちで、白壁、舟板塀の蔵屋敷が残されています。これらを自分の原風景に近いと感じる方もいるかもしれません。
●風景の比較考証 ・雪国のミセの比較〜黒石のこみせと高田の雁木 青森県黒石市の「こみせ」は大きな屋敷の表通りに設けられた庇付きの通路で、主屋1階の高さに合わせています。一方、新潟県上越市、高田の雁木は総延長16キロあり、間口の狭い商家に設けられており、高さや意匠、舗装もまちまちで、庇の高さが雁行するように見えることから「雁木」と言われたのだと考えられます。
・城下町の比較〜金沢と萩 金沢市長町は大野庄用水に沿って続く武家屋敷で、からし色の土塀や石垣などが美しい街並みとなっています。一方萩は二つの河川に挟まれた低地に碁盤上の道路形態で単調だが、塀の作り方が各屋敷によって異なった表情を見せていて個性的です。
・白山を挟んだ二つの秘境集落〜白川郷と白山市白峰 岐阜県白川郷の萩町は60度近い勾配の茅葺屋根の家屋が秩序をもって建ち並んでいます。一方、白山を挟んで20キロメートル程度しか離れていない石川県白山市の白峰の集落は手取川の谷合にあり、開放的な屋敷構えが特徴で4寸勾配程度の石置き屋根、大壁造りでの小窓のある建物など、同じ養蚕業を生業としまた浄土真宗の宗派の村でありながら全く様相が異なっていて面白いと思います。
・水との闘い〜砺波と安曇野 水を生活に生かしてきた二つの村をみてみます。富山県砺波平野に広がる散居村は、庄川と小矢部川が形成した扇状地に広がります。暴れ川だった庄川に加賀藩の時代に堤防が築かれ、多くの人たちが入植するようになって形作られてきました。長野県の安曇野は北アルプスから流れる河川によって形成された複合扇状地で、水利確保が課題でした。江戸時代に、大規模な用水路「拾ヶ堰(じっかせき)」がつくられました。等高線に沿って流れる拾ヶ堰は、ところによって常念岳に向かって流れているような錯覚を覚えます。
・風との闘い〜輪島市上大沢と山口の祝島 石川県輪島市の上大沢では、冬の季節風から家屋を守るため、竹ぼうきを逆さに並べ立てたような「間垣」で集落の外周を囲っています。山口県上関町の祝島では防風、防火のため、白練壁が迷路のように通りをめぐっていて、この通りのことを家と家の隙間という意味の「あいご」と呼ばれています。
太平洋側と日本海側では、防風壁がかなり違っていて、太平洋側は石の“剛”の様相のものが多くみられます。愛媛県西海半島外泊の石垣の里、佐多岬半島野坂の防風石塀や井野浦の石造りの防風畔、志摩半島大王崎波切の石塀、伊豆半島松崎の海鼠壁で覆われた建物などが見られます。
一方日本海側は“柔”の竹や板のものが多く見られます。島根県鷺浦の防風竹垣、新潟県宮川の板塀、青森県津軽半島脇元の板塀「カッチョ」、北海道江差の「ハネダシ」などがあります。
●特殊解的な事例 ・京都府伊根町 “伊根”の舟屋 若狭湾はブリ漁が盛んなところで、海に面して舟屋があり、その奥に道路を挟んで母屋があります。昭和の初期にバスを通すために、集落内の通路や畑などの土地を出し合って道路を拡げたことで海辺に舟屋が残されました。
・鹿児島県 “知覧”の麓集落 薩摩藩の武家屋敷群のひとつで、「馬場」と呼ばれる道の両側に石垣で囲まれた屋敷が並んでいます。石垣の上にはイヌマキや茶の木で生垣がつくられ、屋敷の中には庭園が造られて、箱庭のような集落ができています。
・兵庫県佐用町 “平福”の至福の川端 平福は因幡街道の作用川の川沿いに蔵造の建物が並んでいます。川端には美しい暮らしの空間が広がっています。川べりの土蔵群も味ある建物ですが、最近の水害で今では塗り替えられてしまっています。
・広島県福山市 “鞆の浦” 日本でも古い港町の一つで、潮の干満で船を動かすという港町で、人や物の交流が盛んで、さまざまな歴史上の舞台にもなっているというまちです。湾岸には船をつける大規模な雁木、金毘羅大権現の常夜灯、いろは丸展示館の大蔵、高台には寺院、神社が並んでいます。
・岡山県真庭市 高瀬舟の終着駅“勝山” 旭川の最上流にあり高瀬舟の終着駅となっていたまちです。河岸と商家は「雁木」という階段でつながっていて、特徴的な景観は往時のにぎやかさを伝えています。
・大分県 坂のまち“杵築” 国東半島の付け根にある街です。杵築城を東端として城下町が広がっており、武家屋敷が並ぶ南北の台地、それらに挟まれ商店が並ぶ谷あいの商人の町があり、複雑な地形のなかに丁寧に坂道が造られていて、函館や江戸の坂道とは一味違う雰囲気を持っています。
・秋田県横手市 “増田”の内蔵 中七日町通りには切妻造妻入を主とする家屋や、その背後に接続する鞘(さや)と呼ばれる上屋で覆われた内蔵(うちぐら)が現存しています。内蔵は、豪雪地帯増田ならではのつくりをしており、美しく塗り上げられた漆喰や漆など、当時の最先端の左官技術を駆使した意匠がみものです。
・愛媛県愛南町 水荷浦(みずがうら)の段畑 宇和海に面した急峻な斜面全体に石垣を積んだ段畑が築かれ、まさに「耕して天に至る」と言われる景観です。人々の長い営みと労苦を実感させる圧倒的な景色となっています。 ・山形県鶴岡市 修験道の里“手向(とうげ)” 「たむけ」がなまって「とうげ」になったといわれています。出羽三山の門前町であり、宿坊や土塁など歴史的に貴重なまち並みが残されています。写真は出羽三山神社への2446段の石段です。全国各地から訪れる信者を宿坊でもてなし、出羽三山に導く営みが継承されています。
・佐賀県伊万里市 秘窯・鍋島の里“大河内山(おおかわちやま)” 肥前鍋島藩の直轄の御用窯が置かれ、将軍や大名への献上品、贈答品として制作された最高級の磁器「鍋島焼」が生産された場所で、現在は「秘窯の里」と呼ばれています。今なお約30の窯元が伝統の製法を守り次の世代へと受け継いでいます。
●武蔵野東久留米市 国木田独歩の世界“柳窪” 柳窪は東久留米市の小平霊園のそばになりますが、武蔵野の面影を色濃く残した屋敷林が広く残っています。江戸時代には玉川上水がひかれ新田開発が進み、屋敷林や雑木林を持つ家屋ができるようになりました。柳窪の集落は自然発生的に形成されたもので、黒目川沿いに不規則に広がり、屋敷林の中に畑や民家、小川が見え隠れするというまさに国木田独歩の武蔵野の世界があります。
いま、この辺りが相続などにより戸建て住宅地に変わりつつあります。柳窪を残していくための運動も始めているところです。
近藤さん、たくさんの事例写真とともに、風景の比較考証や各地のそれぞれの風景の成り立ちや根付いている人々の暮らしなどもご紹介いただき、ありがとうございました。充実したお話の内容をつたないまとめで、十分には伝えきれないことをご容赦ください。皆さんも近藤さんのご著書をご覧いただければと思います。
サロンの数日後の日経新聞に輪島市上大沢の間垣集落が、地震と洪水の影響で住民が帰還をあきらめる例が多く、家屋の解体も進み存続の危機にあるという記事が掲載されていました。風景は人々の暮らしとともにあるとはいえ、自然災害により暮らしそのものが成り立たなくなることもあるという現実を思い、近藤さんの著書のように、価値ある風景をその背景となる暮らしや歴史などとともに残していくことの価値を改めて感じました。 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD200U30Q5A920C2000000/
(2025.9.30[Tue]記載)
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■ テーマ:「食と農と環境をつなぐ教育から地域連携へ ー恵泉女学園大学での30年を振り返ってー」 ■講 師:澤登早苗(さわのぼり さなえ)さん ■講師略歴:恵泉女学園大学名誉教授、自由学園非常勤講師、元有機農業学会会長、 Life Lab 多摩代表, フルーツグロアー共同代表
澤登先生には2016年5月の第13回木曜サロンでもお話していただき、今回2回目の登壇です。今回は、恵泉に着任された1994年から約30年をふりかえり、5期に分けてお話しいただきました。
澤登先生は大学院までは一般的な農業を学ばれてきたそうですが、1993年に国際有機農業運動連盟第1回アジア会議にボランティアとして参加し、「緑の革命」*1がもたらしたアジアの農村における貧困化等に衝撃を受けたと同時に日本の農村も同じ問題を抱えていて、これからの解決の道をアジアの人と一緒に何かできると思ったことが有機農業運動に積極的に取り組むきっかけとなりました。また、当時のボランティア活動での出会いが、恵泉女学園大学(以下、恵泉)に勤めることに繋がったとのことです。
●第1期(1994年〜1998年)畑を有機栽培農場へ転換(非常勤講師) 当時、有機農業は異端児扱いの時代でしたが、恵泉の平和学研究者の提案で、有機栽培取組みへの道が開けました。恵泉には農学部がなかったことも功を奏したようです。有機物(藁、畳、草など)を入れての土壌改良、水を加えて発酵を促進させた鶏糞(曰く、ドロドロ鶏糞)の使用などを繰り返し、学生たちとともに畑の有機栽培への転換が実現しました。
●第2期(1999年〜2005年):人を育てる有機農業、生活園芸プログラムの確立(専任教授) 人間環境学科(2001年開設)に開設当初から関わり、人文科学系の大学で有機農業のもつ多面的機能を活かす「有機農業で人間形成を行う」という新たな視点を持ち込みました。同じく2001年には教育機関としては全国初の有機JAS認証を取得し、生活園芸プログラムの確立に取り組みました。「生活園芸I」では学部学科を問わず全ての学生がキャンパスに隣接した教育農場で有機園芸を体験します。また、子育て支援施設「あい・ぽーと」(南青山・2003年開設)での親子有機野菜教室などの実践、海外でのフィールドスタディで現地の有機農業の実態見聞や学生参加のプログラムも実施しました。
●第3期(2006〜2010年):国際連携と「特色ある大学教育支援プロジェクト(特色GPプロジェクト)」 第3期はJICAのプロジェクトなどにより様々な国との国際連携、交流の時期で、2009年には「アグロエコロジー」*2の提唱者を迎えて国際シンポジウム&ワークショップ開催、オーガニックショップ(恵泉内・2010年開設)では国内外の農産物販売などを実施しました。また、2006年度にはフィールドスタディを中心とした教育プログラムが、2007年には教養教育としての生活園芸が、それぞれ文科省の「特色GPプロジェクト」に選定され、体験学習プログラム、生活園芸プログラムのさらなる充実に励んできました。 そして、2006年5月に木曜サロンでの登壇が地域と様々なつながりができるきっかけとなり、地域の方々との活動、公民館講座など地域での活動に積極的に取り組まれました。
●第4期(2011〜2019):福島原発事故と有機農業、生活園芸から社会園芸へ 2011年の東日本大震災と福島原発事故は、「人と自然」「人と人」の関係、有機農業が有する多面的な機能の活用について改めて見直す時期となりました。緊急セミナー「農業と原発は共存できない〜私たちは福島と共に生きていく」開催(2011.5)、福島キッズアンドリフレッシュキャンプの実施。オーガニックカフェ(2012年常設化)では福島の有機農産物の販売などを実施してきましたが、会場となっていた南野キャンパスの売却とその後のコロナ禍で活動は中止となってしまいました。2013年設置の社会園芸学科は、心理と園芸の学びを通して「人と人」の関係を豊かにする工夫を考えることを目的とし、有機農業の多面的機能を活用して社会・地域の問題解決を地域と連携して取り組んでいく学科です。(多摩市の花壇アダプト、レイズドベッドを利用した園芸療法、大学との三者連携で運営してきたグリーンライブセンタ―等々、様々な場面で学生たちが地域の皆さんにお世話になりました。)
●第5期(2020〜2023年)コロナ禍を経て、現在まで コロナ禍では授業やプロジェクトが大きな影響を受けました。しかし、2021年にNPO「LifeLab多摩」を設立し、子育て支援施設「あい・ぽーと」で始めた「キッズ交流ガーデン」の類似プログラムの継承や教職員・学生有志で運営する恵泉CSA*3では“食べる人と作る人を直接つなぐ”を目指した活動の一つとして八角堂(豊ヶ丘)でも野菜等の販売・地域との交流を行っています。また、「庭から育む食と地域〜オーガニック・エディブル・コミュニティガーデン多摩の実践」として、2021年春から地域団体と一緒に豊ヶ丘商店街の一角にある広場にコミュニティガーデンを設置し、高齢者の外出機会、住民同士がつながる機会を作ることを目的として、月1回園芸を楽しんでいます。(ソーラーパネル、雨水貯水タンク、レイズドベッド、段ボールコンポストなども設置) 恵泉女学園大学は終わりますが、2023年には「未来につながる持続可能な農業推進コンクール」(農水省)において長年の有機農業を軸とした取り組みに対して賞をいただくことができました。
多摩ニュータウンには公園はたくさんありますが、公共施設で食料の生産はできません。一方農地はどんどん減少しています。農地が持っている多面的機能(農産物の生産の場、災害時の避難場所、交流の場など)に目を向け、市民側からもアプローチしていくことが大事だと思います。持続可能な社会を考えたとき、農地をなるべく残しながら、農地管理の在り方、農家の方との関わり方も考えていくことが必要です。若い人の中には農業後継者として頑張っている人もいますから、そういう人たちとの交流も深めていけたらということも考えています。
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澤登先生、恵泉30年の歴史を振り返りつつ、先生のこれまでのたくさんの取組や有機農業への考え、地域とのかかわりなど多岐にわたる、興味深いお話をありがとうございました。 充実したお話の内容をつたないまとめで、十分には伝えきれないことをご容赦ください。また、過不足や間違いがありましたらご指摘ください。 恵泉女学園大学は、2026年春で閉校となりますが、澤登先生と学生さんたちが多摩に残された有機農業や生活園芸、社会園芸の足跡はこれからも引き継がれていくものと信じています。澤登先生にも、ご自身のNPOを通じた活動で、これからも多摩ニュータウンとのご縁が続くことを祈念しております。ありがとうございました。
*1緑の革命:1960年代から1970年代にかけて、開発途上国を中心に、穀物の生産量を飛躍的に増加させることを目的として行われた農業技術の革新。品種改良、化学肥料、灌漑、農薬、農業機械などの導入によって、食料不足の解消を目指した。(AI) *2アグロエコロジー:農業(agro)と生態学(ecology)を組み合わせた造語。従来の慣行農業における環境負荷を減らし、持続可能な農業だけでなく、農場から食卓、持続可能なフードシステムを模索する概念。生態学を応用し、自然の力を利用して、農薬や化学肥料に頼らない農業を実践すること、消費者と生産者の関係、食べ方を見直し、出来るだけ短い距離で流通することを目指す。(AI) *3恵泉CSA:恵泉コミュニティ・サポート・アグリカルチャー
(2025.8.17[Sun]記載)
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■テーマ:「団地に住みたい人を、増やしたい!」 ■講 師:村上亜希枝(むらかみ あきえ)さん(団地再生支援協会 団地女子会)
●自己紹介 団地との出会いは多摩ニュータウンの不動産会社に就職したことから始まります。そこでは主にURや公社の賃貸住宅を扱っていました。現在は、団地再生支援協会に属する「だんちぐみ」で若い世代向けにリノベーションした住戸の販売なども手掛けています。 宅地建物取引士として、団地に特化した賃貸・売買をやっていますが、そうこうしているうちに、各所からの依頼が増えてきていろんなことをやるようになりました。 これまでに400組以上の方に団地を案内してきました。団地というものを初めて知ったという人も多く、お部屋の内覧の対応だけでなく、団地の特長をお話してくるなかで、すっかり私が団地好きになってしまいました。 自分で「団地rooms」というサイトを立ち上げ、リノベーションした部屋を紹介しています。また、団地を買うためのノウハウや団地の魅力を紹介するような「団地ジャーナル」というウェブマガジンも立ち上げました。
●団地女子会のこと 団体再生支援協会の会員企業の中から、女性だけを集めて女子会を作ったら面白いんじゃないかという話がでてきて、“自分のやりたいことを中心にやります。 具体的な活動としては、女子会のメンバーが訪れたい団地を選定し、街づくりにかかわるゲスト講師と一緒に訪問する団地見学会を行ったり、先日は、町田の鶴川団地の商店街のイベントに出店し、子どもたちに団地ぬり絵や団地模型を作ってもらったり、このような活動を通じ面白いなと感じたことを、「団地偏愛通信」という記事にまとめています。団地偏愛通信は、団地再生支援協会のホームページや、FacebookやInstagramに投稿しています。
●ダンチジャーナルのこと ウェブマガジンのダンチジャーナルは「団地に住みたい人を増やしたい!」というテーマで、団地を住まいの選択肢に考えていなかったような人たちにも団地を選んでもらえることを意図して書いています。ゆくゆくはいろんな人が寄稿してくれて、団地にまつわるプラットフォームになればいいなというのが希望です。 管理組合と自治会は何が違うのか、団地に住むと人付き合いが大変じゃないの、築50年過ぎてても大丈夫なのか、耐震はどうなのかなど、これまで400組ぐらいの人に団地を紹介してきて、質問されたことなどを書いて、少しでも団地に対するハードルが下がってくれたらいいなと思っています。団地の管理組合ではこんな人が活動してますとか、団地の商店街をこんなふうに盛り上げている人がいますよとか、そういう記事をどんどん載せていきたいと思っています。 また、管理組合の人たちの意見交換ができる場になったらいいなとも思っています。昨年、鶴川六丁目団地の団地の集会所にソーラーパネルがついたんですが、そういうようなたくさんの事例を紹介し、他の管理組合の参考にしてもらい、交流ができるような、プラットフォームになればいいなと思っています。 これまでのリノベ団地の購入者は、30代の単身女性が多く、都内から引っ越してくる方も多くいます。臨月なのに団地の5階に越してきて、毎日階段上り下りしていて安産だったという方もいます。団地の5階というとネガティブな話が多いのですが、5階まで上がるとマイナス何キロカロリーとか、面白いアイディアも盛り込みながら団地ジャーナルを続けていきたいと思っています。 実際に住んだ方や、リノベーションの部屋を購入した方の生の声を紹介することで、団地のハードルが下がればいいなと思っています。
●管理組合のウェブページもつくってます 団地のことをいろいろやっていたら、いろんなことを頼まれるようになって、横浜市の竹山団地のホームページを作らせていただきました。竹山団地は約2000戸の4階建ての階段室型から高層棟まで、戸建も含めた団地で、25の管理組合に分かれているマンモス団地ですが、そのうちの一つの管理組合が外断熱や宅配ボックスの設置など、先進的な取り組みをやっていて、そこの管理組合のウェブページを国交省の補助事業でつくりました。 管理組合のホームページの難しいところは、毎年役員が入れ替わってしまったり、運営に費用がかかることなどがあるので、誰でも簡単に記事の更新が可能で、ランニングコストがかからないサイトを利用しています。現在フォーマットを作っており、他の管理組合や自治会でも活用できるようにすることも考えています。
●団地自治会の広報紙のこと 自分の住んでいる団地の自治会の広報委員に立候補して4年くらいやっています。写真をふんだんに使って、読みやすいように工夫しています。広報紙は女性が作った方がいいと個人的に思っています。経験上、男性の文章は堅くて、入会したばかりの人にはわかりにくいことが多いからです。 私の住んでいる団地も駅から遠く、1200戸の戸建て団地で少子高齢化が進んでいます。住民の間には悲観ムードも漂っていて、それを何とか払しょくしたいと思い、「若者が団地に戻ってきた」というシリーズを始めました。越してきてよかったこと、こうなったらいいなというようなことを紹介しています。 広報紙は往々にしてゴミの捨て方とか、説教がましいことが多く、誰も読まなくなってしまいがちです。そこで、若い人が戻ってきているというような明るい話題を盛り込み、この団地も捨てたもんじゃないと思ってもらえるようにしています。
●団地女子会の活動 https://www.danchisaisei.org/?page=category&category=jyoshikai ●団地ルームズ運営 https://www.danchirooms.jp/ ●ダンチジャーナル運営 https://www.danchijournal.net/
村上さん、大変面白く元気の出るお話をありがとうございました。 意見交換や懇親会では、エレベータのない5階をどうやって若い人達にアピールできるかという、5階談義に花がさきました。 女性のしなやかなパワーは団地再生やコミュニティの活性化に大きな力を発揮すると思います。ぜひ、多摩ニュータウンのいろんな団地に女子会が生まれ、団地再生(男子再生)のきっかっけができれば面白いなと思います。ぜひ村上さんのパワーやノウハウをお貸しください。
(2025.5.31[Sat]記載)
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■テーマ:「 多摩ニュータウンで育った人の記憶の底に残る『原風景』」 ■講師:大内 俊二(おおうち しゅんじ)さん(パルテノン多摩市民学芸員・元中央大学教授)
●はじめに 「原風景」という言葉はいろいろな意味で使われますが、ここでは「大人になって子供のころ(小学校低学年くらい)を思い出す時心に浮かぶ風景を核とした心象風景」とし、個人のアイデンティティの基礎となるものと考えておきます。
私は、個人それぞれの記憶の底に残っている「風景」がこの「原風景」の核になると考え、1987〜2019年に日本全国から集まる大学生諸君に小学校低学年ころの記憶にある「風景」とそこで何をしていたかをアンケートで聞いてきました。その結果は学内誌に一部書いたりしましたが、専門外でもあって未だきちんとまとめることはできていません。それでも、それなりに興味深い傾向を見て取ることはできたと思っています。
最近は多摩ニュータウンで育った人も増えましたし、私もここに住んで40年になろうとしています。そろそろ計画的・人工的に開発された多摩ニュータウン育ちの人々の「原風景」に何か特有な点があるのだろうかといったことを考えることもできそうだと思いました。そこで、大学生を対象にした調査と同様のことを多摩ニュータウンでやってみようと思い立ったわけです。ただし、同年代の学生が多数かたまって存在する大学の場合と違って調査も人づてに少しずつ行わざるを得ず、まだ年齢もバラバラな68名から回答を得ているのみです。というわけで正確な比較は難しいのですが、これまでの結果から推測できそうなことを少しお話してみたいと思います。
●中央大学の学生のアンケートにみる原風景 中央大学理工学部の学生を対象にアンケート調査(1987〜2019年の32年間で有効回答者計5120人)を行いました。アンケートは、ごく簡単に『小学校の低学年(7〜10歳)くらいの時、どこにいたか、そのころの記憶で頭に浮かぶ風景や、そこで何をしていたか』を聞いています。
得られた回答に記された「風景」と「行動」の内容について、それぞれいくつかの項目に分けて回答者数を数え、調査年ごとの回答者全数に占める割合で表しました。これらの項目のうちほぼ10%以上を占めるものについて、社会の変化などとの対応を考察できるよう、子ども当時の年代(1976〜2008年)に置き換えて時系列でグラフ化しました。
記憶にある風景では、1980年代の初め頃までは緑や水辺に関する風景が1、2位で40〜50%を占めていましたがその後急減し、代わって公園・校庭の風景が急増して50%以上となりその後も目立った減少なく他を圧していきます。はじめは比較的多かった(30%前後)原っぱ・空き地、田・畑も、緑や水辺ほどではありませんが同時期に減少しています。ただし、緑、水辺、原っぱ・空き地、田・畑がなくなることはなく、2000年代に入っても10−20%前後は見られます。
行動について見ると、虫取り、魚・ザリガニ取りは、1980年まで40%くらいあったのがその後緑や水辺の記憶と同様に急減しています。校庭・公園に連動していると考えられる野球・サッカーなどの球技は始めからかなり多いのですが、1980年代の56%をピークに徐々に減少する傾向を見せます。記述内容から見ると、この減少傾向は球技と言っても遊びの要素が強かったころから本格的なスポーツに変化していったことを反映しているようです。自転車も減少傾向にありますが、鬼ごっこなどの子供の遊びは根強く残り2000年代には増加の傾向も見せます。校庭・公園などで球技が禁止されることが多くなった影響でしょうか。ゲームはファミコンの登場とともに急増しましたが、その後はあまり増加するわけでもなく2000年代に至っても10%前後で推移しています。回答者に聞きますと、「確かにゲームに費やした時間が長いはずだが記憶にはそれほど残っていない」とのことでした。
●社会の動きを重ねてみると 「もはや戦後ではない」といわれた1955年以降、インフラ整備が急速に進んだ高度成長時代を経て、1770年代になると人々は個人の生活の豊かさを求めるようになりました。自家用車の普及、海外旅行、整備された郊外住宅地の増加など“アメリカ風”の生活様式が1970年代以降急激に広まりました。緑、水辺の記憶が急減するのもこのあたりからですし、公園の記憶の増加も1970年代から急速に進んだ公園緑地の整備に関係していると思われます。交通事故の増加が社会問題となるころには、子どものころの記憶から自転車乗りが少なくなってきています。また、1980年代にファミコンが発売されると、記憶の中にもTVゲームが現れてきます。
1970年代からは多摩ニュータウンのような都市郊外の新興住宅地開発が進みます。しかし一方で、一時期新興住宅地で凄惨な事件が多発したことから郊外住宅地へ強い批判が向けられるようになり、風景がアノニマス(どこでも同じ)となってしまった郊外住宅地でこそこのような犯罪が起こるのだといった論調が注目を集めました。当然、生活様式の変化にともなうコミュニティの変化は、子どもたちの行動にも影響を与えると考えられます。街の整備が進んで自由に遊べる自然スペースやオープンスペースが少なくなっただけでなく、少子化で遊び友達が減少したり塾や習い事で時間を取られたりして子どもたち外遊びが減少し、記憶の底に残る「原風景」にその変化が影響しているように思います。
●多摩ニュータウンにおける調査 多摩ニュータウンの調査は、パルテノン多摩ミュージアム市民学芸員の方などの協力で実施し、68名の方から回答を得ています。そのうち5名はニュータウン開発以前に子供時代を過ごした方で、ニュータウン育ちの方は実質63名ということになります。数が少なく年代のばらつきもあり、中央大学の学生を対象とした全国的な調査とは正確な比較はできませんが、構成比によりかなり強引に比較してみました。
風景に関しては、多摩ニュータウンの調査では当然ながら全国の調査と比べて水辺や田・畑は少なく、道路や建物が多くなっています。しかし、意外にも緑に関する風景が多く、空き地・原っぱも多いことがわかります。公園や緑地が多く造られたこと、ニュータウンが少しずつ時間をかけて開発されてきたことが関係ありそうです。校庭・公園の割合にはあまり違いが見られません。
行動に関しては、校庭・公園で球技が制限されていることもあるのか、球技が少なく、鬼ごっこなどが多くなっています。自然の水辺がほとんどないので魚・ザリガニ取りは当然少なくなっていますが、意外と虫取りが多いことは緑地が多く造られただけでなく宅地造成中にそこここに林が残っていたことも関係していそうです。また、遊具や自転車などが多くなっているのは公園や遊歩道が整備されたからでしょう。
今回得られた回答からは、ニュータウンの特有の特徴が垣間見えるものの、子供を取り巻く環境としては意外と健全な印象を受けました。団地では近所に同世代の子供がまとまっていたでしょうし、緑地・公園・遊歩道が多く造られたこと、開発がゆっくり進んだために空地や雑木林などの空間が残っていたこと、開発事業体や開発時期の違いによって街区の様子が異なっていたりしたことなど完璧な計画都市とは言えないようなところも子供たちにはよかったのかもしれません。
5名の回答しかないのですが、ニュータウン開発以前の多摩市で子供時代を過ごした人の回答では、開発以降に比べて、当然ですが風景では水辺、田・畑、空き地・原っぱなどの割合が、行動では魚・ザリガニ取りの割合が大きいことが特徴的です。
(2025.3.31[Mon]記載)
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