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 木曜サロン
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2023年09月分
■ テーマ:「たま・まちせん木曜サロンで14年ぶりに語る 多摩ニュータウン開発“成果”の検証」 ■講師: 成瀬恵宏:鞄s市設計工房・代表<元・多摩ニュータウン担当公団職員>
成瀬さんは、14年前に「誰かが作ってくれた“お仕着せ”の人工都市『多摩ニュータウン』をもっと“普通の街”に..!!」というテーマで話をしていただいて以来の登場になります。
今回は、ニュータウン開発の着想期・中興期・成熟期の歴史的経緯の解説に加え、開発“成果”の検証を、住宅建設・施設建設や居住人口・就業人口・従業人口あるいは夜間人口・昼間人口そして各商業集積・各駅乗降客数さらには代表的な多摩市の自治体財政事情などの視点からお話ししていただきました。
まず、冒頭で、摩ニュータウンには多くの優秀な設計者が関わっていますが、それらを地図上にプロットした「多摩ニュータウンデザイナーズマップ」(多摩ニュータウン30周年記念事業のなかで成瀬さんが作成されたもの)を紹介していただきました。これをみると、いつ頃、誰が、どこの設計・デザインに関わったかということが一目でわかる資料になっています。
本日の資料は、前回の14年前のデータから、この間の様々な講習会や研究会での蓄積を踏まえ、新たな知見を加えて作成されたもので、今年の多摩市の「都市計画マスタープラン改訂特別委員会」で報告した内容と同じものですが、委員会では45分の駆け足で説明した内容をたっぷり90分かけて、説明していただきました。
本題に入る前に、成瀬さんご自身の多摩ニュータウンへの関りや、多摩ニュータウンのスケール感を都心山手線と、また多摩センター駅周辺を新宿駅周辺と比較しつつ、感覚的にわかりやすく紹介していただき、多摩ニュータウンの「1中2小」の住区モデル、立体的歩車分離による住区間の連携と都市の骨格づくりなどの特徴についての説明がありました。
本題の話は、多摩ニュータウン開発を、「着想期、中興期、成熟期」の3つの時代に区分し、それぞれの時期の諸課題やそれへの対応についての説明がありました。
着想期は、そもそも多摩ニュータウンがどういう目的と発想で始まったか、どういう問題や課題をはらんでいたか、どういうまちづくりを進めようとしてきたかといった、歴史的な話が主題です。
ニュータウン開発の発想は、大都市圏に人口が集中し、東京圏では年間30万人の人口が流入し、郊外へのスプロール的な拡散が顕著だった1960年代、東都知事の時代に始まりました、その後の3期12年にわたる美濃部都知事の時代にブレーキがかかることになります。その間に千里ニュータウンは完成してしまいます(1960年〜1970年)。
当時は爆発的な地価高騰の時代であり、ニュータウン計画も極秘のうちに始まります。当初の計画は、多摩弾薬庫から多摩村南部丘陵、町田市北部丘陵にかけての1600haに15万人規模で検討されていました。計画の責任者であった東京都の初代都市整備局長山田正男氏はニュータウンという言葉が好きではなく、「ニュートーキョー」と言っていたことや、極秘情報を嗅ぎつけた横倉舜三氏の陳情話などのエピソードも聞かせていただきました。
1963(S38)年に新住宅市街地開発法が成立し、ニュータウン開発が土地の全面買収方式で行うことが可能となる仕組みが出来上がります。開発計画は日本都市計画学会に委託されますが、実際には住宅公団に委ねられ、今野博宅地開発部長のもとに7人の有能な人材が集められ(「7人の士」と呼ばれていたそうです)、極秘裏に検討が進められ、「多摩ニュータウン開発計画1965−報告書」いわゆる当初マスタープランがまとめられました。その際に交通輸送計画を立案された八十島義之助東大教授は、多摩ニュータウンには鉄道が必要であり、沿線人口40万人あれば鉄道は成立できると提言され、これを受けて人口30万人に拡張され、区域も稲城町から、多摩町、八王子市(当時は柚木村)、町田市まで含むことになります。稲城は当時首都圏整備計画のグリーンベルトに含まれており、この結果を受けて、首都圏整備計画はすぐに崩壊することになったということです。
マスタープランでは、確実に予想される問題点として、施行者が2以上にわたることにより起こりうる問題、全面買収に伴う問題、都市スケールで開発することによる問題、複数自治体にまたがることによる問題など当初から想定されていました。用地買収を巡っては、地元住民から既存集落を除外する要望が出て多摩町議会も意見書を提出してきました。これに対して、集落除外を見越した自然地形案が検討され、東京都施行の愛宕・松ケ谷では自然地形案に沿った開発がされましたが、公団区域は中造成、大造成案などが検討されることになります。また、既存集落地は新住宅市街地開発区域から除外され、土地区画整理事業が導入されました。
1966年末に最初の事業決定がなされますが、半年後の1967年春には美濃部革新都政の出現によってストップがかかり、迷走することになります。東京問題調査会やロンドン大学のロブソン教授による提言など学者提言により学者知事の説得も行われました。
多摩ニュータウン開発の資金は、郵便貯金などからの借金(財政投融資)でまかなわれますが、用地買収を進めたものの、宅地処分ができないと膨大な金利負担が膨らむことになります。それ故に、宅地整備を急ぐ手法として、丘陵地の上部から試験盛土・仮設ダム工法による先行整備が編み出されました。
多摩町は学校等の先行投資により町財政が圧迫されることを懸念し、財政支援を訴えて住宅建設協議は難航します。町田市は「町田市団地白書1970」で団地進出による児童・生徒の増加は文部省基準をはるかに上回るという実態を明らかにし、団地進出拒否の姿勢を打ち出します。
そのような状況のなか暫定対応で決着し、突貫工事で諏訪・永山地区の初期入居6300戸が1970年7月〜1971年3月に実現しました。しかし、鉄道がないまま初期入居を行った諏訪・永山地区では、陸の孤島と言われる状態が出現し、大問題となり、多摩市は第2次住宅建設に向けて、直ちに@鉄道新線の乗り入れA総合病院の開設B行政境界の整理C自治体財政への支援の4条件を提起します。順次、問題解決を図る中、突如1973(S48)に聖ヶ丘地区を「誘致業務用地区」にするよう市議会の意見書が出されます。多摩市の強い意志を感じ、真剣に財政問題を解決するために、1年間かけて検討し1974(S49)には行財政要綱の制定により、新開発方針への大転換が行われました。
新方針に基づき、約5〜6年のブランクを経て、1976(S51)〜1977(S52)年に貝取・豊ヶ丘地区の第2次入居が行われましたが、第1次入居から第2次入居までの間にはオイルショックがあり、すでに一世帯一住居は実現していました。その結果、第2次入居では不景気とは言え、全くの空き家だらけの結果になってしまいました。どうやら時代は”量”から”質”へと転換していたようです。
中興期は量から質への転換を図り、都市らしい複合的な魅力の創出が課題でした。そうした中で一大エポックとなったのが「タウンハウス諏訪」でした。空き家が問題であった時期に応募倍率が20〜150倍(平均60倍)という人気で、他の団地の空き家も解消してしまいました。この経験で、大量に残っている土地もいいものをつくれば売れるという自信ができ、鶴牧・落合の基幹空間と一体となった住宅地、むかしの風景やせせらぎの復元を目指した蓮正寺・長池地区、さらにベルコリーヌ南大沢へと展開していくことになります。南大沢は東京都の開発地区ですが公団の住宅建設部門が、内井昭三氏をマスターアーキテクトとして複数の著名な建築家と調整しつつ行った団地です。
稲城地区は都県をまたがった分水嶺がネックとなって事業が遅れていましたが、三沢川分水路トンネル工事(1978〜83)により活路を見出し、向陽台、長峰、若葉台と土地買収から18年を経て開発が進展することになり、遅れた分だけ魅力的なまちづくりができる結果となりました。
集合住宅ばかりではなく戸建て住宅も必要だという認識が高まり、多摩市域や八王子、稲城でもニュータウン独特の緑の環境形成を目指した、先進的な戸建て住宅地づくりが進められました。
街の魅力づくりのためには都心のような中心性を有した高次の盛り場的な空間が必要であり、多摩センター地区を多摩ニュータウンのセンターとして位置付け、それにふさわしい機能立地や空間づくりを行うことになります。
事業着手から15年目、多摩センターオープン1周年の記念事業として、80万人を集め25日間ファインコミュニティフェア’81を開催し、これを契機にデパート、ホテル、アミューズメントなどの広域施設の誘致に奔走することとなります。2年後のガーデンシティ多摩’85に継承され、イベントなどソフト面にも力を入れることになりました。
デパート、ホテル、レジャー等を三位一体として、一挙に進めることとし、一方、多摩市にリーダーシップをとってもらい、複合文化施設「パルテノン多摩」を建設します。サンリオは配送センターの立地意向を示していたところを、多摩センターに記念事業として「ピューロランド」を建設することになりました。また、恒久的な建物だけでなく暫定的な建物も容認し、パティオや映画館なども立地しました。
成熟期はベッドタウンから「自立都市」への脱却がテーマとなります。首都圏整備計画では、1999年に多摩が業務核都市に加えられ、「八王子・立川・多摩業務核都市」として位置付けられます。多摩ニュータウンの広域拠点性を充実するため、京王線、小田急線の延伸、多摩都市モノレールの整備が進められます。
多摩市議会要望の自主財源確保のための産業誘致策として、永山駅周辺の業務施設誘致を進め、永山サービスインダストリー地区では新住法の制約の下で、「住居地域」に「特別業務地区」を指定し、大臣認可で建築基準を緩和する措置をとりました。さらに多摩センターや尾根幹線沿道での業務施設の集積も進み、新住法改正により「特定業務施設の導入」が可能となったこともあり、産業誘致が大きく進展しました。
多摩市以外でも八王子市南大沢地区にはアウトレットモールのほか都立大学も立地し、稲城市若葉台地区には大型特殊専門店やテレビ朝日のスタジオ、アルソックなどの業務施設の立地も進んでいます。
多摩センターの西方の島田療育センター周辺には東京都多摩南部地域病院やあい介護老人保健施設などの高次医療福祉拠点が形成されています。また、多摩ニュータウン内外には都立大学、多摩大学、国士舘大学、大妻女子大学、恵泉女子大学、多摩美術大学、中央大学、明星大学、帝京大学などの多くの大学も進出しています。
新住地区以外では谷部や既存集落周辺で土地区画整理事業による整備が進みましたが、これにより新住地区では限界のある、地権者主体の”何かが現れる楽しみな”街が実現しています。町田市域の相原小山地区も、新住事業の限界を見事に救っていると言えます。
ここからが、今日の話で成瀬さんが最も言いたかった内容、「多摩ニュータウン開発事業の”成果”の検証」です。多摩ニュータウンは初期の東京への人口流入時代に廉価な住宅を大量に供給するという目標に対しては、必ずしも適切な対応ができなかったが、当時の多摩丘陵のスプロール防止という点では効果があったといえます。さらに、都心から郊外へと延びる都市軸の形成を先導し、第4の山の手と呼ばれるような新しい生活文化のニーズを呼び込んでもきました。
元東京都職員の霜田宣久氏が作成されたデータをもとに、成瀬さんが大胆な推測を加えて推察され、検証されたものを紹介します。多摩ニュータウンの事業開始から40年間に投資された費用は、土地開発に3兆円、建物等建設に7〜9兆円、あわせて10〜12兆円となり、これはニュータウンに住む1世帯当たり1.5億円になるということです。一方、資金の内訳は用地・工事関連費が1/3、郵便貯金への利息が1/3、その他の公共施設整備負担金が1/3ということで、郵便貯金の利息の支払いを通じて、広く国民にニュータウン開発の利益を還元しているとも言えるというのが成瀬さんの理屈です。
計画目標の達成という観点では、人口目標30万人に対して現状は22.4万人ですが、世帯数は7.8万戸の目標に対し現状は10.2万世帯と大きく上回っています。これは戸当たり人口が3.85人/戸から現状では2.19人/戸と低下しているためであり、住宅の供給という面では十分に目標を達成できています。
従業人口は5.1万人の目標に対し、現状は10万人と目標の2倍に達し、すでに昼夜間人口比も1.0を超え、流入増となっています。
一方、商業集積を見ると、2014年データで多摩センターの商業床5.1万u、販売額331憶円で、目標としていた立川、八王子並みの床面積の半分、販売額では1/3以下という状況です。駅乗降客は2018年に多摩センターは17.9万人あり聖跡桜ケ丘の3倍となっており、このポテンシャルを十分に生かし切れていないといえます。
多摩市の財政事情を見ると、土木費や教育費はニュータウン開発の終了とともに急減、一方で民生費が大きく伸びており、財政余力を福祉等の社会保障費に充当していることが分かります。大胆な試算をしてみると、多摩市の固定資産税・都市計画税161憶円のうち、住宅系が63億、産業系が98億と6割を占めています。産業や企業に対し税収が十分に還元できているのか疑問です。多摩市は全国でも20市程度の恒常的不交付団体の一つであり、決して財政が逼迫している都市ではありません。
多摩ニュータウン再生の課題は、引き潮時代の日本で潮溜まりになれるか、オールドタウンになってもゴーストタウンにならずに済むか、若者にとって住むに値する街になれるかということではないでしょうか。近隣センターの疲弊に対しては、単にモノを売る場ではなく、製造販売、福祉事業所、SOHOの場などを模索することも必要です。ニュータウンを魅力あるものにするためには多摩センターを魅力的にしなければなりません。一度毀損したものを回復するのは困難です。都市間競争に打ち勝つには住民の努力だけでは困難であり、公的な力を投入することが必要です。産業系の固定資産税・都市計画税の一部でも多摩センターの活性化のために投入できないものでしょうか。
初期入居地区では建替えも一部では進んでいますが、今後はRC建物の長寿命化技術も進展し、100年住宅、200年住宅や長期的な住宅需要も見据えていく必要もあります。
意見交換では、京王プラザホテル撤退後の活用策、パルテノン大通りと中央公園の使い方、ニュータウンの維持管理費や残された優れた資産の維持方策、自治体を超えたまちづくりの単位の考え方などの議論がなされました。
また、今回の成瀬さんの話の内容は、木曜サロンだけではもったいない、ぜひパルテノン小ホールなどで、広く市民の皆さんに聞いていただけるような機会を設けてほしいという声も寄せられています。
多摩ニュータウンの着想から今に至る70年超の歴史と今後の話まで、1時間30分かけて話していただきました。成瀬さん、大変ありがとうございました。
(2023.9.30[Sat]記載)
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