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2013年04月分

第88回(2013年4月18日)

■テーマ:軍艦島は団地だった
■講 師:東健一(ひがし けんいち)さん(多摩市在住)

 軍艦島は海底炭鉱として栄えた長崎市端島の別名です。日本の石炭産業の衰退に伴い1974年に閉山しましたが、小学校5年からそれまでの4年間を軍艦島で生活されたという東健一さんにお話を伺いました。

 端島炭鉱は1890年(明治23年)に三菱社が所有して以降、生活環境整備や小学校の建設などが進められ急速に成長しました。1916年(大正5年)に日本初の鉄筋コンクリート造の4階建て(後に7階に増設)集合住宅が建設されました。ちなみに、同潤会アパートが建設されたのが関東大震災後の大正12年ですので、それより7年も前ということになります。軍艦島の名前の由来は、このころの新聞記事に“まるで軍艦のようだ”と紹介されたのがきっかけのようです。

 大正から第2次大戦までは朝鮮人労働者や中国人労働者も多く、過酷な労働と劣悪な環境を強いられ、自殺者や脱走、拷問などもあり、監獄島と呼ばれたこともあったそうです。軍艦島には、三菱の資本家から職員、炭鉱従業員のほか、日雇い・下請、強制労働者がいっしょに暮らし、集合住宅は上層から下層に階級の序列に従って居住していたということで、露骨な序列や差別もあったようです。

 人口の最盛期の1960年(昭和35年)には5,267人が6.3haの島に暮らし、人口密度は836人/haに達していました。かっての島には7階建ての小中学校、商店、保育所、映画館、パチンコ屋、郵便局、派出所などもそろっていたそうです。東さんによると、端島でのくらしは三菱鉱業のまるがかえ企業城下町として、大家族のような疑似コミュニティができており、疑似パラダイスのような生活だったということです。

 ひしめき合う建物はそれぞれが回廊でつながれ、建物の屋上が子どもたちの遊び場、小学校の校庭は岸壁に囲まれ、これを超えるとホームランではなくアウトだったそうです。台風がくると、岸壁からは波しぶきが降り注ぎ、“潮降り町“という地名まであったそうです。

 2001年に三菱マテリアルから旧高島町に譲渡され。現在は長崎市の所有となっています。軍艦島を世界遺産にしようという動きなども出てきており、長崎市議会では国の史跡指定を目指しているようです。廃墟だとか近代化遺産などと騒がれていても、端島で暮らしていた人や端島で育った人にとって、軍艦島は故郷であり、なつかしい思い出の詰まった場所であるはずです。東さんのお話や見せていただいたたくさんの写真、ビデオからはその思いが十分に伝わってきました。

 軍艦島の閉山はちょうど多摩ニュータウンの開発が始まった時期と重なります。今、多摩ニュータウンで事業を営み、ニュータウンで暮らし続ける東さん、かっての少年時代を過したパラダイスとしての軍艦島の生活と、ニュータウンをダブらせながら、ニュータウンに暮らす人にとって、ここが永遠のパラダイスとなることを心から祈っておられるのだと思います。

 東さん、とても楽しいひと時でした。貴重な写真やビデオもたくさん拝見させていただき、ありがとうございました。

(2013.4.23[Tue]記載)


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