多摩ニュータウンの空き家事情を再確認してみると、公的賃貸住宅として供給されている都営住宅では空き家が殆ど発生しないが、UR賃貸や公社賃貸では市場家賃とのバランスが崩れると大量に空き家が発生する。それも臨機応変な対応が緩慢なUR賃貸では半分が空き家という賃貸団地もあり、適切な市場性が生かされていないケースがある。大家がURである場合や都公社である場合には地元の民間事業者では対応できないので、何時まで経っても空き家は埋まらない。相当、思い切って家賃を下げなければ空き家は無くならないのだが相変わらず空き家を温存している。それが現実だ。内装も設備も十分だし管理もしっかりしているのにもかかわらず入居者がいないのは、単に家賃が民間より高いということに他ならない。だから民間の力を借りて空き家を埋めるなどは出来ない。

こうした状況と異なるのは民間の団地やマンションになる。多摩ニュータウンには民間の賃貸住宅はないので、個人が所有している団地内の住戸が賃貸物件となる。子育てのために長期に渡って使用したものが子供が独立して高齢者のみの住まいになっている。特にエレベーターのない団地での居住は生き続けることの出来ない環境にもかかわらず、移動することも出来ずに困難な居住を強いられている。経済的にも移動することも出来ずに、健康だけを維持しようと必死の状況だ。運よく団地の建替が出来ればバリアフリー化も可能だが、現実はそうも行かない。

こうした住み続けることが運命づけられた団地では、住み続けるための覚悟を具現化するために建物の改善に取り組んでいる。サッシの取り替えにより複層ガラスにより断熱性能を上げようと投資をする。外断熱改修を行おうと国の補助事業を確保しようと努力する。合意形成の難しい中で何とか総意を得て改善に取り組む。環境整備を整えようと電線類の地下化を実現した団地もある。全てが住み続けることができる団地であるために共同で努力する。

しかし、個別の住戸の改善はこれからだ。たとえば自らの住まいを賃貸して家賃収入を得ながら、その家賃で高齢者サポートのある賃貸住宅に住み移ることが出来れば安心だ。その為の自分の資産の生かし方を高齢者は知らない。相変わらず80?の住戸に独りで住むことを余儀なくされている高齢者には30?のコレクティブ住宅に住み移ることを奨めたい。そのために現在の住まいを賃貸物件として商品価値のあるようにすることを支援したい。そのためのノウハウは不動産業者にもあるはずなのだが、そこまでの知恵は回らない。ならば私達が応援しよう。

また、中古マンションの売買に際しても内装などの更新はするが、中古市場において、購入者にはむしろ個性的な改装ニーズが発生する。こうしたニーズに対して、現状では不動産業者の関連事業者がサービス提供を行うことになるのが一般的だが、そこには売り手側の一方的な価格設定や価値観の押し付けという買い手側のニーズを十分組み入れられない状況がある。そこで、仲買の不動産業者に対するサポート共に、中古マンションを購入する側の居住性を支援する仕組みが必要になる。それを生み出す中間的な組織が必要になる。

多摩ニュータウンにはこうした内装専門の設計者やコンサルタントが蓄積されている。さらにそれを請け負う工事業者も育っている。従って、それらのニーズとシーズをマッチングさせる事業体があれば、相互の要求を結びつけることができる。そこに地域のビジネスチャンスも生まれるし、地域のストックのグレードアップにも繋がるのである。今後の地域のストック活用のマーケットとして住まいのグレードアップキャンペーンを展開する活動が期待される。

「核家族」をウィキペディアで調べると

? 夫婦とその未婚の子女

? 夫婦のみ

? 父親または母親とその未婚の子女

となっている。つまり親族家族で親と子の単位世帯を言うのだが、日本の現在の家族の主流である。その他の家族の姿としては「三世代世帯」や「非親族世帯」あるいは兄弟などで構成する世帯を言うが、国勢調査などでの調査単為が「家計を一つにしている」ことを前提にしているため、一つ屋根に同居していても家計が異なれば別世帯としてカウントすることから核家族が生み出されているという見方もできるので、同居の実態としては見えにくい。

こうした事情はあるにせよ、統計分類された中で子育てをする世帯は「夫婦と子」と「ひとり親と子」がそれにあたる。グラフで見ると明らかだが、「夫婦と子」の世帯数は2000年に入ってから急速に減っていき、「ひとり親世帯」は着実に伸びている。未来予測では2030年ころには「ひとり親世帯」は安定し始めるが「夫婦と子」世帯はさらに減少する勢いである。これは人口そのものの減少により実質的には「ひとり親と子」世帯が増加しているということにもなる。

子育てするのに夫婦が揃って役割分担をしていると子育てもしやすい面があるが、ひとり親世帯では何かと不便。いやいや夫婦揃っていたって、子育ての苦労は妻に集中してノイローゼになってしまうケースもある。最悪の場合は子殺しでも起こってしまっては後の祭り。そこで、子育てに対して何らかのサポートが求められるように思える。

だから福祉側でも子育て支援は手厚い施策の一つなのだが、どうも全体に平等にという視点が強く、母子家庭を対象に、とりわけ個人的なサポートのない世帯への優しい支援が欠かせない。こうしたひとり親が保育園や児童福祉施設に関連した中にあればサポートも見えるのだが、それを離れて周辺からのサポートを受けられない場合は悲惨になる。自分ではその環境を造れないひとり親を対象にコミュニティづくりをレクチャーする必要があるだろう。

福祉サイドのサポートではなく、居住をベースにしたサポートは無いだろうかと考えると、戦後、間もない頃の戦争未亡人を支えた流れの「母子寮」の伝統がある。保育園などとの併設で近所にもあったが、まだまだ働く女性の少ない時代、子育てを支えるには保育園と連携する母親同士の支え合いが必要という考え方で出来上がった「母子寮」であった。こうした住まいは全国でもあって、子育てが終わって独立した子供は、親を母子寮に残して去っていった。そして、その親がようやく他界して「母子寮」の歴史も消えたようだ。全国の公営住宅の仕事をしていると、こうした住宅に巡りあった。それも概ね昭和の終りとともになくなっていったように思う。

昭和の歴史を取り戻す必要はないが、違う意味で「母子寮」が求められているように思う。ひとり親世帯の増加は、高齢者のみの世帯の増加と合わせ技で、助け合える関係のコミュニティが生まれる可能性を含んでいると思う。これからの住まいの在り方に、そんな関係を模索したい。

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余っている容積率を活用する方法第二弾として賃貸住宅を建設することを提案したい。というのも公的組織が分譲した団地の多くはエレベーターがない。民間ならば目一杯立てようとするので必然的にエレベーターは付くのですが、公的な組織の計画は中層が望ましいという考え方で計画しているせいか、5階建てまでの建物が多い。そもそもエレベーターの設置義務は建築基準法などの法文には謳われていないのですが、なぜか6階になるとエレベーターが設置されるという不思議がまかり通っています。いや正確にはそうではなく、各住戸までが5層で有ればエレベーターはいらないと言う暗黙の取り決めがあるようで、斜面に建っている7階建ての3階に道路からのメイン階段があるマンションにもエレベーターが無いし、5階と6階がメゾネットになっている団地型マンションにもエレベーターがない。要するにアプローチ階から5層まではエレベーターが必要ないとなっているようです。

実は建築基準法にエレベーターの設置が登場したのは平成7年に国の長寿社会対応住宅設計指針に6階以上に設置義務を謳ったのですが、実は昭和26年に公営住宅法が制定されて、関連の建設基準に6階以上のエレベーター設置基準が示されていて、その後の公的な住宅建設では特に言われなくても厳密に基準を守り続けていたことになります。ちなみにエレベーターの設置義務は中国では7階以上だと聞いていたしヨーロッパは6階建てのリスボンのホステルにはエレベーターが無かったし、ロンドンの5階建ての社会住宅に外付けのエレベーターが増設されていたので、もしかしたら統一されていなかったのかも知れません。何はともあれ、高齢者が増える中でエレベーターの設置は時代の要請です。25年前に私の関わった3階建ての民間マンションには油圧式のエレベーターを付けましたので、公的な住宅のみが遅れていたという事になりますか。公的機関の習性で、何かに習わなければ決められないという実績主義と言うか右へ習えというか、前例主義が長年日本のエレベーターに基準を与えていたとすると、これもまた凄いことでもあります。

かなり本題から外れたようなので、本題に戻すと、エレベーターのない団地に今更エレベーターを付けるのはナンセンスなので、空き地にエレベーター付きの賃貸マンションを建設しましょうという提案です。高齢者等のバリアフリーな環境が必要な人には、コミュニティを離れることなく住み続けられるようにエレベーター付きの賃貸住宅を管理組合が建てるのです。そして団地内の高齢者等が移り住み住み続けるのです。家賃は所有している住宅を賃貸して確保しても良いし、売却して移ることも出来ます。また、所有している住宅を担保に生活費を捻出するリバースモーゲージも活用できるでしょうし、マンションには融資しないと言うのならば、管理組合が胴元になって融資することも可能です。何れにしても機のあった方々と生活を続けることの出来る環境を守り、継続して生活することが必要なのです。

自分たちで建てた賃貸住宅は土地が只なので家賃も低く抑えられます。内部で使う場合は割安な設定も可能でしょう。100年使える建物ならば殆ど修繕費程度の家賃で貸すことも可能でしょう。投資した資金を100で回収することを前提に家賃を設定すれば市場家賃よりかなり安くなるはずです。そこでは共に過ごすための仕組みとしてコレクティブ住宅にもなるでしょうし、必要に応じて認知症のサポートも導入したりシングルマザーとの共生も可能でしょう。コミュニティのまとまりは様々な可能性を生み出します。それは大きな家族の始まりなのですから・・・。

予測というものは未来を診るためには絶対的に必要な情報になる。とりわけ「住宅」を考える上では基本的なものとなる。というのは家族の姿と住宅の姿が相関することに他ならないからだ。

そこで、未来の家族はどのようになっていくのかを単純に「核家族」と「単身世帯」で比較してみた。すると現在、核家族の数はピークに達していて、今後は減ることが予測されている。そして単身世帯がドンドンと増えていくことが見えてくる。となると今後のテーマは単身世帯のすまいということになる。

この場合、一言で単身世帯と言っても、学生の単身から高齢者の単身まで様々で決め手がないが、ここで単身世帯が増えている背景を見定めると以下に整理できるだろう。

? 高齢単身世帯が増えている。

? 晩婚化、未婚化の進展で単身者が増えている。

? 離婚の増加で単身世帯が増えている。

? シングルマザーなどの増加で単身化が早い。

? 別居結婚も増えていて単身居住が増えている。

? 老親との同居から単身化するケースも多い。

? シェアハウスなどの普及で、親元から離れる若い人が増えてくる。

単身化する要素は多々あるが、それぞれに住まいの形も選択も変わってくるように思う。最近はやりのシェアハウスならば、都心に近い一戸建てや広いマンションが拠点になりそうだし、高齢者にはシルバー用の介護付きなどの住まいも提供され始めている。晩婚化や未婚化でのシングルの増加や別居結婚の場合は、独立した生活の場を確保しているケースも多く、もともと独りでの生活を積極的に望んでの単身化なので、それを結びつけることは意味を持たない。こうして考えるとシングルの共同住宅を必要とするのは若い結婚前世代か高齢者ということになる。だから若者のシェアハウスやシニアハウスが広がっているという読みもできる。

こうして見てくると、単身世帯の住宅のニーズも見えたし、その住宅供給も拡大すると思われるが、何かが抜け落ちているのではないかと思える世帯がいることに気付く。それは将来の単身世帯化に気がかりな世帯であり、単身で子育てしているひとり親世帯の存在だ。

何れ子供は成長し独立する中で、親が取り残されることになるが、そこに未来の選択のジレンマがある。「親を残しては結婚できない」「子が独立したら独りになる不安がある」「子育て後の単身生活が長くなる」「親付きの子供は結婚が難しい」などなど様々なハードルがありそうなのがひとり親世帯の未来。そこに共に住む住宅を提供することで、未来を明るくすることは出来ないのだろうか。

現実の子育てにも悩みは多いし、身近に相談できる人がいることは心強い。だから他人でも一緒にいると何かと便利。そして子育ては、住まいを気にし始めてから、せいぜい高校を卒業する10年から15年が山。それを過ぎれば子供は親を離れる。いや離さなければ心配にもなる。だからシングルマザーも心の中では親離れをさせようとする。しかし、子供が親を見捨てるようにも思えて離れなれないのだが、互いに同居し続けると子供の婚期も遅れることにもなりかねない。そこを何とか回避できるような住まいがあるといい。

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カレンダーの組み合わせで9日間の連休になるという正月休みを利用して『帰省ラッシュ』が始まっている。一時期、帰省が少し下火になったと感じていたが、このところ、お盆休みや正月休みの帰省客が増えているようにも思う。帰省といえば、都会に出た子どもたちが田舎の両親に会いに戻るという流れだが、今やその両親も都会に住んでいるので、帰省そのものは次第になくなっていく運命にあるのかと思っていたのだが、ここに来てなにやら盛り上がっているように感じる。

笹子トンネルの事故もあるが、格安航空路線の増加や新幹線の延伸、高速バスの多様化などで、公共交通利用の選択も広がっていて、価格も選択ができる時代になりつつある。確かに移動しやすい条件は整っているとは言え、そもそも帰省客そのものが減っていくものだと思っていたら、実はそうでもないという現実に驚いている。

国土交通省には観光庁があって、観光情報を提示している。その中で『観光統計コラム「知って得する観光統計コラム」』というコーナーがあって『第5回「混雑vs姑」帰省したくないホントの理由は?』という掲載が合ったので紹介する。ここでは基本的に帰省したくない理由を説明していて、以下抜粋――「帰省はできればしたくないので、あまりしていない」という人が12.7%、帰省はできればしたくないが、できるだけするように心がけている」という人が27.5%います。すなわち、約4割の人が帰省に対してネガティブな印象を持っているのです。――となっていて、帰省はしなければと思って入るが、実際は出来れば止めたいという心根が窺い知ることができる。

そういう私も以前はせっせと帰省をしていたのだが、両親が他界してからは一切しなくなった。毎年のように数十万円の費用を掛けての帰省は、確かに負担でもあり義務でもあったように思うから、出来れば自由になりたいと願うのは、当然といえば当然で密かに心に抱いていた。だが、実際、帰省をしなくなってみると、少し肩の荷が降りると共に、何か物足りなさも感じてしまうのは故郷に対する郷愁なのかもしれない。だから、それ以降は帰省の代わりに正月前に海外旅行を企画することが多くなったし、子どもたちも独立するとさらに帰省の感覚も遠のいていくことになった。いや、そろそろ子どもたちが帰省してくるのかしらんと思ってもいるが、まだまだそこまでにはならないので、気楽に人生後半の旅に出るのだろうと思っている。

最近、近所では孫や子が団地の両親を訪ねている帰省の姿をよく見かけるようになった。多摩ニュータウンの団地であるから東京なのだが、四国から帰省している人や北海道からの帰省など、地方から都会への帰省も見える。集団就職で都会に出た人たちが今では都会に居を固め、その子どもたちが地方で家庭を作って、都会に帰省する姿もまた、新しい帰省の姿。渡しの場合はそんなことも無いので、気軽に過ごしているが、帰省される方も意外と負担になってくるのではないかと、余計な心配をしてしまうのは私だけではあるまい。

「地獄の沙汰も金次第」という妙に真理を突いた言葉があるので、「そんなことはない」などと正義漢ぶったところで真実は曲げられない。確かに金次第だという声が多くを占めるし、そもそも真実とは何かを多数だとか少数だとかで判断すべきものではないという言葉も聞こえてくる。そこに「有料老人ホーム」が登場する。

そもそも有料老人ホームとは、ウィキペディアによると「老人福祉法第29条に規定された高齢者向けの生活施設である。」となっており、概要での説明に「生活サービスを提供することを目的とした施設で老人福祉施設でないものをいう。」となっている。つまり、「老人デイサービスセンター、老人短期入所施設、養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、軽費老人ホーム、老人福祉センター、老人介護支援センター」以外の高齢者サービス施設ということになる。

どうも、公的役割と私的役割を区分するのに用いている法律のようであるが、日常的な生活支援サービスの多くは公的にサービスして、日常的な生活や居住の確保は私的に行うことの区分のようだ。日本では医療保険と介護保険、そして福祉施策としての公的支援の他は自力で守るしかないと言う判断になるのが基本。意外と通り一遍な施策しかないなと言う感想だが、確かに福祉というのは底抜けだから、どこまでやれば良いのかという限界論に陥りやすい。生活保護と年金とのギャップなど、分かり易い事例も出てきて、年金が減らされる議論は素早く取り上げられているようだ。

さて、有料老人ホームのニーズだが、自主的に選んで入居するケースと、家族の都合で入居させる場合に分けられそうだが、自主的に選ぶ方は、経済的なバランスの上で生活基盤の安心を得て、日常的に積極的な生活を送ることに意義を抱いて入居を選択する。しかし家族に圧されて入居する場合は、厄介者を追いやるが如き事態も加わって、なかなか難しいニーズも背景にあるだろう。

という風に考えてみると、自主的な入居は自らの生活に対して希望を持って入居するというケースが生まれ、入居の基準として利便性、快適性、機能性、経済性などの評価を加えた選択となり、自ずと全国から選別されて評価の高い地域に集中するという市場が生まれるはず。だからそこには有料老人ホームが集まってくる。ということはその地域に居住している高齢者の数よりも、人気のあるところには数多くの有料老人ホームが提供されていなくては外部からの入居は耐えられないから、比較的老人ホームの数は多くなる。

そこで、結論的に見ると、大分県がダントツだが、これは温泉か?と思う。温泉付きの有料老人ホームならば、多少、生活拠点が移動しても友人を呼んだりも出来そうだという思いも走る。人間、体力が弱ってくると、最後には健康維持が生きる希望になる。毎日、朝夕の温泉三昧。「朝寝朝湯朝酒が大好き」な「小原庄助さん」に成りそうだが、あれは会津磐梯山の麓の話。日本人だから、やっぱり温泉が良いなぁ?。

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「有料老人ホーム」という言葉を読むと、「料金の必要な老人ホーム」と読める。それに対して「公的老人ホーム」と云えば、何らかの公的な補助の入った施設で、施設料などの負担はない施設だと理解できる。実際、公的施設である特別養護老人ホーム(特養)や養護老人ホーム、軽費老人ホームなどの費用は公的な支援を受けるので、有料老人ホームよりは相当安価な入居費用で過ごすことが出来る。だから東京圏などは特養に入るのに10年や20年、待たなければ入れないなどと言われるほどで、入るまでには亡くなっているという悪い冗談まで聞かれる始末。だから高齢化して年金生活になったら、公的施設の多い地方に移住したほうが安心だという考え方もある。その比較のためには全国各地の施設の量がポイントになる。つまり、高齢者の数に対して公的な施設が多いほうが入りやすいということになる。

公的施設の割り当てとしては、だいたい多い県と少ない県では2倍の開きがある。65歳以上10万人に対して50施設以上が島根県、徳島県、そして40台が香川県、秋田県、鹿児島県、長崎県、佐賀県、愛媛県、岡山県と続く。秋田県以外は大阪以西の九州四国中国が占める。秋田県は高齢化県でもあるが、人口減少の先頭グループなので、高齢化が進み過ぎで施設の余剰が出始めている状況でもある。つまり施設の余裕は高齢化先進県に現れ始めているといえる。元々、地方で高齢化が進んだ。だから国は地方の高齢者施設にテコ入れを行ったし、地方自治体としても現実の高齢化に対して市民の生活支援を重ねてきた。そして結果として施設だけが残っていったという流れである。つまり、高齢者にとっての公的ストックが可能な環境が整っているという特徴が現れ始めたのである。

「ストックの時代」と言われるが、戦後の日本経済の発展の中で蓄積した資産。とりわけバブル経済期に良質な公的ストックを量産して「負の遺産」として評価されるものも多いが、それらを有効に活用することで「負の遺産」が「正の遺産」として理解される事にもなるのだという意味で、高齢者施設は有益であると思う。地域に残された資産は団塊世代などの高齢者の他界と世代交代により、よりゆとりのある経済的な高齢者の居住環境を生み出す基盤として都市に息づくことになる。そうなると高齢化はもう怖くない。

一度、建った建物は少なくとも100年は使えるものである。地方に建てようが都会に建てようが建物の性能や寿命は同じで、高齢者への見守りのサービスさえあれば快適に過ごせる環境である。地方の若い世代が高齢者施設で働き、高齢者がその経費を負担する形が確立されれば、経済は回る。施設建設費に費用が嵩んだり、企業の利益追求に加担した費用負担を架せられる有料老人ホームと違って、みんなで支えあう公的施設で過ごすことに、次なる人生を置くという選択も都会人にはあるのかもしれないと、改めて思う。

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幾つかの家族が寄り添って居住するコミュニティ作りにチャレンジしてきたことで、次なる目標が定まっている。それは賃貸でも分譲でもない第3のマンションである。土地は地主が持っていて、建物を建てる費用を建設組合が出資して調達する。建設組合には地主も居住者も投資家も参加できるが、基本的には居住する、しないに係わらず建設する為の組合を形成する。つまり建物の所有は建設組合が共有し、地主から借地するのである。建物の借地期間は30年ないしは35年位を想定して、期限満了の段階で地権者が建物を買い取る仕組み。地権者は30年間、あるいは35年間の間に地代を貯めておき、中古の建物を買い取ることになる。そうすることにより建物の権利が分散されることなく、最終的には地権者の責任で処分も含め対応することが出来る。そしてコミュニティは基本的には建物の利用料を支払いつつ共生する環境を維持することになる。

基本は所有と利用を分離して企画に参加するメンバーを募集して、その企画にあった地権者と協議してコラボレーションするものである。従って敷地ありきではなく参加者ありきで事が進むことになる。土地ありきの場合、多くのケースで地代が固定され、地権者の迷いを払拭させるために高い賃料設定に成りがちである。そこで、利用者、つまり土地のユーザー集団が地権者と交渉することで適切な地代を設定して、さらに地権者とのパートナーシップも育てようと言う主旨である。時代は右肩上がりの地価ではなく、むしろ地価ものものに信頼性がおけない時代に入っている。地権者にとっても土地は持っていても利用しなければ固定資産税や相続税の心配をしなければ成らず、かといってアパートを建てても入居者が保障できない時代。それが入居者組合や建物組合の設立で確実に地代が入ることと、特約付き定期借地で、将来的には居住者も含め賃貸住宅としての資産が確保できるという条件での土地提供はメリットがある。

基本は集まって住みたいと思う人々を集結させることが出来なければ始まらない。そこがスタートだから、仕掛けが難しい。単純に誘っても乗ってくれる訳ではないし、自らが住みたいと思うものでなければ無駄な事になる。自分が住みたいと思うような企画が必要になる。そこでチラシでも配って、この指止まれ方式でグループ作りを試してみようかとも思うのだが、さてどうする。

なんだかんだと言っても最後は老人になっていて、老人ホームで過ごすほうが安心という選択になる。在宅で最後までという選択は一部の恵まれた人に対する特権で、まずは介護する家族がいなければならないし、住宅事情が介護する人も同居できるほどでなければならない。当然、介護費用を負担する為の経済力も伴わないと成立しないことになるので、そう簡単ではない。日本では施設介護が整備しきれないということもあって、在宅介護が叫ばれているが、単身世帯の高齢者に在宅介護の余地は殆ど残されていない。結局は老人ホームのお世話にならなければ死ぬことさえ安心して出来ないことになる。

老人ホームも運営主体に因って「公的施設」と「民間施設」に分けることができるが、国や自治体が補助して特殊法人が運営する老人ホームには以下のような分類ができる。

・特別養護老人ホーム(特養)

・養護老人ホーム

・軽費老人ホーム

・ケアハウス

・介護老人保健施設(老健)

・グループホーム

また、民間施設では、株式会社などが運営する老人ホームとして、以下の分類になるが、住宅型、施設型、入居金タイプ、家賃タイプなど幾つかの選択肢がある。

・有料老人ホーム

・ケア付きマンション

老人ホームの種類も、そして費用についても多様化している中で、老人ホームの選択も難しい。様々なサービスが提供されているが、高齢化とともに市場の拡大や多様化に因って、ある意味では市場原理が働くことに因って、いい意味で選択の余地が拡大している現状がある。だから市場に老人ホームが多いほど選択の巾は広がり、コストもサービスも良くなるという原理が働くことは当然である。

こうした市場を簡単に見分けるには、まずは高齢者に対する施設の数を比較して見ることである。そこで、全国を都道府県別に老人ホームの数を調べてみた。それが以下の図である。

65歳以上の人口10万人当たりの老人ホームの数であるが、2009年の状況では大分県が70.0とトップ。次いで香川県の66.2となる。これには公的な老人ホームと民間のホームが合計されているので、その詳細は見えないが、とにかく老人ホームの多さには軍配が上がるのが大分県。「大分は温泉県」「香川は讃岐うどんで安価な食材」などと想像してみるが、次いで島根県、宮崎県と続いている状況からすると、最初に高齢化が始まった地域が、次第に老人ホームも飽和状態になり、余剰が出始めているのではないかという解釈も成り立ちそうな気配。もしかしたら、東京から地方に移住したほうが最後まで安心安全で幸せに過ごせるかもしれないと思ってしまうのは間違いだろうか???

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30代から公営住宅の計画や設計を中心に仕事を続けてきた。その中で許せない制度が日本にはあった。それは「二種住宅」と「一種住宅」の差である。端的に言うと、一種住宅より二種住宅の方が貧しい世帯の住宅として位置づけられ、住戸面積も5?ほど小さく設定されていた歴史がある。戦後の住宅政策の中で、昭和25年の住宅金融公庫法、昭和26年の公営住宅法、昭和30年の日本住宅公団法の三法が日本の住宅政策とされ、公営住宅は低所得層の居住水準を確保するために全国に整備された。そして差別を生み出した。

公営住宅団地はただでさえ、地域から差別を受けていた。公営住宅団地の学校は敬遠され、「公営住宅の子供とは遊ぶな」という意識が生まれた。そして、その渦中の公営住宅の中でも二種に対する差別意識が生まれた。二種の建物は廊下タイプで狭い。一種は階段タイプでプライバシーが保たれているという具合に、ハードの整備基準が上下意識を生み、差別感を創っていた。収入の多寡にかかわらず家族の人数は同じはず。住戸面積に差があるなどは明らかに差別で、歴然と区別する手法に反感を覚えていた。そして、技術的に可能な方法として、その差を顕在化させない手法を考えた。

そこで一種住宅と二種住宅を同じ階段を挟んで向かい合わせた。つまり一種と二種の建物を作るのではなく同じ建物に並列で並べることで、差別を意識させない仕組みとした。同じ階段で向かい合う住戸の関係では相互に差を意識することは出来なくなる。現実に入居時の所得の差はあっても、その後の経済力は逆転するかもしれない。それが家庭の経済力であり入居時の経済力が続くわけではないのに、入居時から格付けが始まっているという仕組みを実態のないものにしたかった。

現在、一種二種の区別は無くなった。従って住戸の広さと世帯の収入状況だけで家賃も決まり、種別の差別は無くなった。それは政策として居住者サイドの考慮で平等を確保したものではなく、国の補助制度の統合に因って差別が無くなったにすぎない。だからうっかりすると、意識しない内に差別が生まれるかもしれない。

ずっと住まいについての仕事をしているが、ようやく住まいが余り始めて、無理して住宅を購入する必要が無くなった。持ち家の親が子に譲ることが出来る時代が来た。それほど日本の住宅ストックが増えてきたことと、少子化で人口減少社会に入ることで住まいを広くシェアすることが出来るようになった。とりわけ地方の公営住宅は空き家が増えており、都会に拘らなければいつでも公営住宅に入居して低家賃で過ごせることになった。

思いがけなく、公営住宅は国の補助制度で良質な住宅が供給されていて、民間賃貸住宅よりも品質の高い住宅が多く供給されていることから、地方都市では公営住宅の品質に軍配が上がるほどになった。逆差別などと言われる例もあり、貧しくなくては入居できないという矛盾さえ孕んで来た。差別や平等、そして公平などという概念も、時代に因って変わるし制度によって価値観も変化する。住宅余剰の時代に入った今、公営住宅事態の在り方も問われているのだ。